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国際派バスジャーナリストとして世界を駆け巡る!バス専門誌『BUSRAMA INTERNATIONAL』編集長・和田由貴夫さん

国際派バスジャーナリストとして世界を駆け巡る!
バス専門誌『BUSRAMA INTERNATIONAL』編集長・和田由貴夫さん

和田由貴夫さん

1978年の初渡航から2011年の現在に至るまで、優に70回(ヨーロッパだけで30回!!)を超える海外取材の実績をもつ和田由貴夫さん。バス業界の国際派ジャーナリストとして活躍され、世界でも珍しい「バス」と「トラック」の業界専門誌を別々に発行する出版人として、海外企業からも一目おかれる存在です。

そんな和田さんの「バス」との出会いには、幼少時を過ごした東京・赤坂の環境、色彩デザイナーとしても著名な洋画家の祖父の存在、自動車ジャーナリストの草分けで、日本自動車殿堂入りを果たした、偉大な恩師の存在がありました。

今回のインタビューでは、和田さんがバス専門誌を発行するまでの、さまざまな「出会い」について、語っていただきました。

■バスとの出会い、そのきっかけとなった幼少期の思い出

2005年度日本自動車殿堂の表紙
2005年度日本自動車殿堂(表紙・左)に掲載された
五十嵐氏のデザイン画(右)

バスに興味を持ったきっかけは、まずは私の幼少時の生活環境にあったのかもしれません。私が幼少期を過ごした東京・赤坂界隈は、官庁街の黒塗りの車や大使館関係の最新型が行き交い、溜池周辺には整備工場が軒を連ねていて、クルマに興味を抱きやすい環境だったと思います。ただ自家用車など持てる家ではありませんでしたから、身近な自動車であるバスに乗るのが楽しみで、自然とバスの形やエンジン音、車掌さんの仕事振りなどを一生懸命観察していました。
また、私の祖父・和田三造は洋画家、色彩デザイナーとして有名でした*1。そんな祖父の影響か、中学の頃には自動車デザイナーになりたいと思っていました。しかし新しい時代の自動車デザインは機械化され組織化も進み、自分の作品がそのまま形になるわけではないことがわかり、次第にクルマの文化や歴史に興味を持つようになりました。

[*1:和田三造は、大映映画『地獄門』で色彩・衣裳デザインを担当。この作品で1954年の第26回アカデミー賞の衣裳デザイン賞を受賞。黒田 清輝に師事した著名な洋画家で、白馬会展・官展で活躍。色彩研究にも多くの業績を残した]

■自動車ジャーナリストの草分け、恩師・五十嵐平達氏との出会い

五十嵐平達氏
五十嵐 平達 氏

私のバスへの興味の始まりは、中学生の頃に出会った五十嵐平達という方がきっかけでした*2。自動車ジャーナリストの草分けとして有名な方です。元々は自動車の設計やデザイナーとして活躍されていて、1950年代には拡声器をつけた宣伝自動車などのボディデザインをされていました。1960年代に自動車ジャーナリストとして活躍されていた頃、五十嵐氏の雑誌の記事を読んでその内容に感激し、ファンレターを書き出版社に送りました。しかし実際に五十嵐氏の手元に届くまで時間がかかり、数カ月して「行きつけの模型店から貴君の手紙を受け取った。住所が近いようだから事務所に遊びにいらっしゃい」という手紙が届き交流が始まりました。自分がバス好きだということを知ると五十嵐氏も「バス好きとは珍しい。僕もバスが好きなんだが、いまの自動車ジャーナリズムにはバスを語れる者がいない。勉強してみてはどうか」というお話で、それが自分の進路を方向づけることになりました。

[*2:五十嵐 平達(いがらし へいたつ)、自動車デザイナー。後に自動車評論家として活躍。2005年に自動車の技術者以外では初めて、日本自動車殿堂者入りを果たした。トヨタ博物館には、氏の膨大なコレクションの一部を公開する特別閲覧室「五十嵐文庫」も設立されている]

■バスジャーナリストとしての活動のはじまり

ボンネットバス伊豆の踊子号の写真
1976年(昭和51年)に復活したボンネットバス
「伊豆の踊子号」(東海バス) ※2010年4月26日に運行休止

それまではバスの本はおろか、一般の目に触れるバスの資料など皆無でしたから、学校の図書館で自動車の本を探したり、古本屋の自動車雑誌を漁っては、小さい頃に見たバスの記憶を裏付けていた程度でしたが、五十嵐氏ご自身がバスボデーの設計や塗装デザインを手掛けたこともあって、懐かしい写真を拝見したりお話を伺ったものです。今にして思えば、お忙しい中、よく面倒がらずに耳を傾けてくださったものです。そのうちに「新しいバスは君の方が詳しいから1960年代以降は任せるよ」とも言われました。調子に乗って、大手町にできた自動車振興会の図書室(現在の自動車工業会内自動車図書室)では常連客になり古い資料を調べたものです。
ある時、五十嵐氏から「日本バス研究会というのができたそうだ」というお話があり、調べてみると鉄道雑誌のボンネットバスの記事がきっかけで、その名前の組織からその雑誌の編集部に投稿があった旨紹介されていて、私も入会し、メンバーが集まる例会に参加しました。バスとの付き合い方も知識もそれぞれでしたが、参加者は異句同音に「ほかにもバスが好きな人が居るとは思わなかった」と言っていたものです。バス愛好家が組織化された最初の契機でした。その意味で、当時のバスファンは孤独でした。いまとは隔世の感があります。
ちょうどその頃、思いがけなく1975年に訪ねた沖縄のバスに関するレポートが業界誌に掲載されました。これは五十嵐氏に個人的にお送りした手紙と写真でしたが、面白いからと私の名前で掲載してくださったものです。続いて朝日新聞社の『世界の自動車』1977年版にボンネットバスに関する記事を執筆するよう依頼がありました。私にとっては記念すべきメジャーデビューです。この時の特集は1976年6月に静岡県の東海自動車が「伊豆の踊子号」というボンネットバスを復活運行したことがメインでしたが、このような世の中の動きにも五十嵐氏は注目していたのです。1979年版の『世界の自動車』には海外のバスと国産バスの歴史を執筆する機会を与えられ、これらをきっかけに新聞や雑誌からの原稿依頼を受けるようになりました。

■編集者としての活動 日本初の「バスの本」を発行

『日本のバス1982』の写真
『モータービークル』創刊30周年臨時増刊号
『日本のバス1982』

そうした中、運輸省の外郭団体「日本自動車輸送技術協会」が発行する機関誌の編集を担当していた出版社から、編集に参画してもらえないか、とのお誘いがあり、その機関誌『モータービークル』の編集を担当することとなりました。
『モータービークル』誌は、タイヤ、オイル、設計、整備技術など、どちらかといえば技術よりの内容で、編集委員も事業者やメーカーの技術者などで構成され、それまでとは異なる「業界」の視点を勉強することが出来ました。反面、会社の方針で自分の名前を出すことは控えざるを得ず、1970年代後半に”メジャーデビュー”したはずが、1980年代は”黒子”に徹することになりました。
入社してすぐの1980年12月に、『モータービークル』創刊30周年の編纂を最初に任されました。同じ頃、バスファンのためのバスの本が出版されましたが*4、『モータービークル』の臨時増刊として自ら企画したこの臨時増刊『日本のバス1982』は、「日本初の本屋さんで買える一般向けのバスの本」との宣伝文句で、月刊誌よりはるかに内容も充実させて刊行しました。この時に初めて、日本のバスには利用者の立場からバスを生活の道具として捉える視点が欠落していることを強く意識するようになりました。

[*4:『 バスに乗ろうョ大百科』(発行/日本バス友の会・発売/九段書房・1981年2月発売・新書判)]

■1990年に創刊したバス専門誌『BUSRAMA INTERNATIONAL』誌から世界へ

『BUSRAMA INTERNATIONAL』創刊号
『BUSRAMA INTERNATIONAL』創刊号

『モータービークル』誌で9年半ほど編集の仕事をした後、1990年の8月に独立して『BUSRAMA INTERNATIONAL』を創刊しました。前職の頃にも「バスだけの本」を手がけてきましたが、年に1〜2回の臨時増刊号では収まりきれないものがあり、メーカーや読者の方からも、バス専門誌の創刊を望む声が寄せられていました。
創刊号は4000部を発行しました。読者は、バスファンはもちろん、自治体などの行政機関やバス事業者、自動車関連メーカーなどを対象にしています。また、海外取材は、展示会やメーカーの試乗会などに合わせて行っています。

1996年には『モータービークル』の読者からの要望もあって、トラックを中心とした「はたらくクルマ」の専門誌『WORKING VEHICLES』を創刊しました。バスやトラックなどのはたらく車の専門誌は海外にはたくさんありますが、同じ出版社がそれぞれ別々に媒体を用意する例はとても珍しいようです。

ぽると出版*5では、雑誌以外の活動として、バステクフォーラムの開催、海外のメーカーと提携したオリジナルバスモデル「CLUB BUSRAMA」の企画・販売なども行っていて、バスファンどうしのコミュニケーションを深める活動も続けています。

[*5:和田さんの設立した会社「ぽると出版]の「ぽると(porte)」は、フランス語で「門」という意味。


インタビュー後記

和田さんのバスとの出会いには、今も尊敬してやまない恩師・五十嵐平達氏の存在がありました。いろんなお話を雑談のようにお伺いしたインタビューでしたが、五十嵐氏のことになると、懐かしそうに目を細めながら、そしていきいきとお話される姿が印象的でした。
バスに関する資料室のようなものがあれば見せていただきたいと、ずいぶん不躾なお願いをしたところ、偉大な功績を持つ五十嵐氏のあるエピソードについて、静かに語りはじめられました。
五十嵐さんのご自宅には、後にトヨタ博物館に寄贈されるほど、膨大なクルマの資料が山のように(トヨタ博物館に寄贈した本は、段ボール箱で1万箱!?)あったそうです。最晩年、五十嵐氏がホスピスに入院されたときも病室には何度もお見舞いをし、身の回りのお手伝いをされたそうです。ご自宅から資料を探すときにも的確な指示があり、膨大なまさに「資料の山」の中でも、言われたとおりの場所から見つけ出すことが出来、改めて資料のみならず、頭の中の整理が出来ている方だと尊敬の念に打たれたといいます。自動車ジャーナリズムの先駆者として、中には「厳しい、気難しい」と評されたこともある方でしたが、後進の研究者には惜しげなく知識を伝え、自動車に対してどれほどの愛情と探究心をもって仕事に打ち込んでいらっしゃったかが、ひしひしと伝わってくるエピソードでした。


和田 由貴夫(わだ ゆきお)プロフィール

1953年(昭和28年)東京生まれ。東京都立航空工業高等専門学校機械工学科卒。
1976年よりバス研究家としてバスに関する執筆活動を始める。1980年から『モータービークル』誌の編集者を経て、1990年5月に独立し、ぽると出版を立ち上げる。同年8月には『バスラマ・インターナショナル』、1996年には『ワーキングビークルズ』を創刊し、現在に至る。刊行物には前期の2誌のほか『年鑑バスラマ』『バスラマスペシャル』『バスラマアーカイブス』など姉妹誌がある。株式会社 ぽると出版 代表、『バスラマ』編集長。


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